半生記Part1

 

 

 

 


私は自分のことが好きだ。多少の失敗は経験あるものの、ほぼ順風満帆な人生を謳歌しているからだ。半生を書けば自賛しかないだろう。所謂なろう小説が嫌いな人は読まないのが無難であり、それでも読んで途中で不快になったら読むのを中断してほしい。

 

 


私の母は高校卒業と同時に就職し、20歳で私を産む為に退職した。直接言う者はいなかったらしいが、少なからず「子供が子供を産んでどうするんだ」といった内容の批判はあっただろう。だからこそ母は「絶対に立派な子供に育ててみせる」と手塩にかけて育児に励んだと言う。

 

その為、幼少時代から甘やかされた経験はない。幼稚園で出来た友達家族とマックへ行って友達がハッピーセットを頼んでいても、我が家はポケモン以外のハッピーセットは禁止であった。スーパーへ行って友達がお菓子を買って貰っていても我が家は禁止だった。


ゲームも禁止だった。両親が結婚当初ストリートファイターで喧嘩し、争いの元になると判断したからだ。おもちゃも基本的に買ってもらえない為、家にある数少ないおもちゃを遊び尽くした。恐らくこれが私の人間性を決めた最大の要因だと思う。

 


遊び尽くしたおもちゃは3つある。1つ目はプラレールだ。これは父親が電車好きであることから買い与えられた。3歳の頃は父にレールを組んで貰い、1台の電車をぐるぐる走らせることしかしていなかった。5歳になる頃には自動3分岐レールを使い、六畳間の子供部屋いっぱいに環状線を組み、4台くらいの電車をどれだけ長い時間衝突事故を起こさず走らせられるかを研究していた。最高無事故記録を更新すると非常に嬉しく、次の日もその状態で遊びたかったのだが、夜になると布団を敷く為、せっかく作ったレールを片付けるよう言われてしまう。

そこで私はレールの配置を全て暗記した。使っていたレールの数は50近くだったが全て暗記出来た為、次の日布団を閉まってからすぐにレールを組み直し、前日の続きを遊ぶことが出来た。


2つ目は日本地図パズルだ。これは近所の人からのお下がりで、47のピースからなる至って普通のパズルだ。普通は数回パズルで遊んで終わりなのかもしれないが、遊ぶものが少なかった為に私は何回も遊んだ。何回も遊ぶ内にまず47都道府県の名前を全て覚えた。次に47都道府県の形を覚えた。しまいには目隠しをしながらパズルをすることすら容易となっていた。それを知った母は全てのピースに県庁所在地を書いたシールを作って貼ってくれた。そのお陰で目隠ししながら県庁所在地を全て答える遊びに発展した。それ以上はこのパズルで遊ぶことは無くなったが、今思えば次は名産物シールでも作って貼ってくれれば良かったのにと思う。ちなみに当時私は5歳だった。


3つ目はゲームボーイカラーだ。冒頭でゲームは禁止されていたと言ったがゲームボーイカラーだけ例外的に許されていた。懸賞でポケモン金バージョンが当選したからだ。本体はついてなかったものの、せっかく当選したのだからと本体を買ってもらえた。当然ゲームをクリアした後もやり込んだ。小学2年生でポケモン図鑑251匹全て揃えていたのは自分だけだったのではないかと思う。ミュウは当時まだ普及していなかったネットを駆使して裏技を見つけゲットし、セレビィは懸賞に応募して当て、幕張メッセまで取りに行った。ゲームは1日30分までだった為、Lv100の育成は10匹程度しか出来なかったが、それでも小学1年生からプレイし始め、6年生になるまで毎日地道に育て続けた。

 

また、どういう風の吹き回しだったのかは分からないが、2年生の時にコロコロカービィも買ってもらえた。セーブデータを3つ作れた為、当時難易度が高いと言われていたゲームではあったが全てのデータを100%クリアまでやり込んだ。攻略本には載っていなかった1upの裏技も自力で見つけた。ミニゲームもやり込み、高得点ランキングを理論値で埋めた。理論値で埋めてしまうと次回以降理論値を出してもランク外扱いとなってしまい、敗北BGMが流れるのが嫌で遊ぶのを辞めた。同じような声が他ゲームでも多く挙がった為に今のゲームは同スコアを出すと記録更新扱いになるよう改良されたのかなと密かに思っている。

 


これら3つのおもちゃエピソードから分かるように、私が今日1つのことをとことんやり込む性格になったのは幼少期におもちゃをあまり与えられなかったことにあると考えている。それと同時に絶対的に自信のある記憶力も培われたと考えている。ただ、やり込むことに関しては後天的なものだが、記憶力に関しては天性の才能があった。何故かというと、私は産まれる前の記憶があるからだ。

 


私が4歳の頃、部屋を掃除していた母は妊娠発覚後に退団したオーケストラのカセットテープを見つけた。懐かしく思いその場で再生すると、私が「その曲知ってる」と発言したのだ。知っているわけが無いのにと思っている母に対して私は続けた。

「暗くて狭いところでこの曲が鳴り響いて、ぼく怖くて暴れたんだ。」

この言葉を聞いて母は思い出した。妊娠した後、1度そのオーケストラに経過報告をしに行った際、それまで1度も胎内で暴れたことのない私が激しく暴れたのだ。音が怖かったのだと思った母は経過報告も程々に部屋を後にしたという。つまり私は2019年現在26歳だが、最古の記憶は27年前のものと言える。

ちなみに大学生の頃に気になり調べたのだが、胎児時代の記憶を持って産まれる子供の割合は約1%らしい。ただ、その中には「天国で神様に言われたからママのお腹の中に入った」といった定かではない話も含まれているらしく、実際のところはもっと少ないだろう。また、胎児の記憶があると記憶力が良いとされる文献は見当たらない。故に実際のところ私の記憶力が天性の才能と言い切ることは出来ないのだが、胎児の記憶も現在の記憶力も類い稀なるものである為、因果関係があると推測する方が自然であると考える。あとその方がかっこいいからそういうことにする。

 


長くなってしまったので次回へ持ち越し。

次回はコナンとの出会いと憧れについて。

そして第一モテ期と第二モテ期の話。