ゲーム遍歴Part1

 


特に思い出のあるゲームについてのみ数回に渡って書いていく。ただし基本ゲーム禁止の家庭で育っている為、プレイした事のあるゲームはあまり多くない。

 


今回はスマブラシリーズだ。これは私の人生最初に触れたゲームである。幼稚園の友達の家にあり、当時はひたすらカービィを使って遊んでいた。まだやり込むようなことはなかったが、友達の家ではスマブラばかりやりたがった。

小学2年生の時に別の友達の家に遊びに行った時、スマブラDXがあった。当然一緒に遊んだが、64と比べてボタン配置が大幅に変更されたことや、友達がやり込んでいたことから9割負けた。残り1割も神殿下部での泥仕合に勝ったもののみである。それでも楽しかった。ただ、当時東京の学校に通っていたが、そこではゲーム自体流行っていなかった為、それ以降スマブラをすることはなかった。

小学5年生になり、埼玉へ引っ越してからは誰かの家で遊ぶのが主流だった為、スマブラをする機会が出来た。もちろん皆強かったが、ひたすら友達にボコられつつ学習し、6年生に上がる頃には仲間内十数人の中で1,2位を争うレベルまで上達した。その中でスマブラを持っていなかったのは私だけだった。

 

中学生の時にWiiスマブラXが発売された。遊ぶ友達も中学に上がり単純に増えたが、発売当初は変わらずトップの座を争っていた。

だが、中学3年生の時に初めて同じクラスになった人とスマブラをしたらボコボコにされた。3ストックのタイマンで1ストック落とすのが精一杯だった。その人が属する3人グループは皆同じレベルだと言う。私は自然とそっちのグループとよく遊ぶようになった。中学3年が終わる頃にはその強いグループの中でも1番になった代償に、受験勉強の時間を全てスマブラに費やしたお陰で偏差値が10下がった。高校は偏差値が下がる前に確約を貰っていた私立の進学校へ行った。


高校へ行くとあらゆる友達が「地元ではスマブラ最強だった」と言っていたので全員ボコボコにした。2ストック以上落としてくる人は1人もおらず、大抵が1ストックも落とせないレベルだった。

大学へ行くとあらゆる友達が以下繰り返しにより中略。

 


ただ、大学生の間にただ1人1度も勝てなかった相手がいる。当時の彼女だ。

彼女はスマブラ大会に出る程強く、大会の結果こそ全参加者の半分くらいしかいかないらしいが、井の中の蛙であった私をボコボコにするには充分すぎる程強かった。

私はこれまでと同じようにひたすら戦って同じレベルまで強くなろうと思った。だが彼女はあまり戦ってくれなかった。向こうからすれば相手にならない私と戦い続けるのは楽しくないらしく、毎回すぐに他のゲームをしようと言われた。「強くなる為にアドバイスが欲しい」と頼んでも「感覚派だから分からない。強い人にひたすらボコられていればいつの間にか強くなるよ。私はそうやって強くなった」としか言わなかった。もろちん私には他に強い友達などいなかったし、そもそも自分の彼女が断るようなことを他に誰がやってくれるというのだろうか。よって私は数ではなく質で強くなる為、毎回メインキャラしか使ってくれない彼女に他のキャラを使って戦ってみてほしいと頼んだ。すると「他のキャラは使えないから嫌だ」と断られた。だがこれで引き下がってはいよいよ強くなる手段が無くなる為、ひたすら説得してやってもらった。1戦目はギリギリだったが私が勝った。すると彼女は非常に不機嫌になり、「もうやらない」とそれ以降スマブラをしてくれなくなった。

以上の通り、当時の彼女は大変性格が悪かった為、友達とイタリアへ旅行に行った際にトレビの泉でコインを3枚投げてきた。

半生記Part3

 


次は人格形成となる程重要ではないかもしれないが、私が今まで告白された中でも1番変わった方法だったので話すことにする。

 

その人は当時の私から見て随分と変わり者だった。仮名を鈴木とする。今思えば恐らくコミュ障だっただけなのだろう。話す時はどもり過ぎてて何が言いたいのかよく分からない。笑う時が「フヒッ」という笑い方で不気味。クラスで隣の席だった時はよく私の持ち物に落書きをしていた。1番変だと思ったのは下校時の出来事である。私の家は小学校から1kmくらい離れた所にある。鈴木真反対に住んでいる為、一緒に帰ることはなかった。その日は校門まで一緒だった。その時の会話の中で私は鈴木をからかった。すると「こらー男子ー!!」のノリで追いかけてきた。これだけならよくある光景だったのだが、私は校門を出て自宅方向に数m走ったところで足を止め、鈴木に「また明日ね〜」と挨拶をしようと思った。すると、まだ鈴木は諦めずに追いかけてきていた。まだやるのかと驚きつつも私は自宅方向に逃げた。流石に真反対の家だからすぐに諦めると思っていた。だが甘かった。鈴木は結局自宅のすぐ近くまで追いかけてきた。自宅付近まできて恐怖感を覚えた私はそれまで軽く走っていた足を速めて振り切ることにした。物陰で見ていたが、目標を見失った鈴木は諦めて元来た道を歩いて戻って行った。私は少しからかったつもりだったのだが、もしかするとかなり怒らせていたのかもしれないと反省した。

次の日の朝、学校へ行って鈴木と顔を合わせるとまた追いかけてきた。やはり怒らせていたのかと思い、逃げずにその場に留まった。追いついた鈴木は「ちょっと何よ昨日の〜!」とツッコミを入れてきて、終わった。

この為だけに昨日は逆方向に1km近く追いかけてきたと知った後も私は態度を変えることなく普通に接した。当時の私は聖人だったのかもしれない。


私は小学4年生が終わると同時に東京から埼玉へ転校した。当時携帯など持っているはずもなく、個人情報の取り扱いもまだ甘かった為、私の新住所は公開されていた。すると5年生の正月、鈴木から年賀状が届いた。転校して以来会っていないので約1年ぶりのやり取りだ。我が家は母が最初に年賀状を回収し宛先毎に分けるため、内容までは読まずとも目には入る。その母から「変わった年賀状が届いてるよ」と言われ手渡された。鈴木からの年賀状には大きなハートとメッセージが書いてあった。メッセージの内容は今でも一言一句漏らさず覚えている。

「私はりっかくんのことが大好きです。りっかくんは私のことどう思っていますか?大好き・好き・ふつう・きらいから選んで返事下さい。」

最初に出た私の感想は「せめてあけおめくらい書いてくれ」であった。年明けを感じさせるものは、そのハガキがお年玉付き年賀ハガキであったことと、申し訳程度に貼ってあったスクラッチのおみくじシールのみだった。ちなみに大吉だった。

母から「なんて返すの?」と聞かれ、私は「嫌いか大嫌い」と返した。すると母に「大嫌いは選択肢にないよバカ!それにこういうのは大好きか好き以外の時は言わないのが無難なんだよ!」と叱られ、女心のいろはを叩き込まれた。結局返事は母の監修の元、「あけましておめでとう!今年は会えるといいね!」と返した。

私は女心と優しい嘘があることを学んだ。

ここでも蛇足だが、仮名の鈴木は外国人ではないにも関わらず髪型がパパイヤ鈴木並のアフロだったことから名付けている。

 


最後は小学5年生のバレンタインである。

その日に限らず近所には広い公園がなかった為、放課後はみんなで学校の校庭に集まり遊ぶことが大半であった。その日も校庭でサッカーをしていた。すると隣のクラスの女の子に呼び出しをされた。話したことは無かったが、その子は学年でも3番目くらいに男子から人気のある女の子だった。だが私はこの時既に学年で1番人気の女の子から本命チョコを貰っていたのでかなり有頂天になっていた。加えて、以前から呼び出しをしてきた子の友達が私のことを好きだという噂があった為、「それは誰の呼び出し?」とかなり上から目線で聞いた。案の定友達に頼まれたと返ってくる。私は既にひやかし始めてる他の男子にこれ以上からかわれたくなかった上、その友達は学年で最も嫌われている女子だった為、「用事のある人間が直接呼ぶのが筋なのでは?自分の用事なのに友達を使うなって言っといて」とぶっきらぼうに伝言を頼んだ。

その女の子がちゃんと伝えたは分からないが、友達のところに戻った後、本人から呼び出しされることはなかった。私はサッカーに戻った。

帰る合図のチャイムが鳴り、私は家に帰ることにした。この時には既に呼び出されたことも忘れていた。そして家に帰り玄関を開けるとそこには先程友達に呼び出しを命じた張本人がいた。ハリセンボンの箕輪はるかに似ていたので仮名は箕輪とする。家の中にいた箕輪はまだ玄関で状況が分かっていない私にチョコを差し出した。その様子を母と弟が見ている。家の中に入るためには箕輪をどかさないと入れないが、箕輪はチョコを受け取ってくれない限りどく気はないだろう。何より家族が見ている為邪険に扱うことも出来ない。「ありがとう」と言いチョコを受け取った。箕輪は満足そうに「お邪魔しました」と言い帰って行った。

 


それから母と弟に事情を聞くと、どうやら箕輪は学校で遊んでいた弟を発見し、尾行してきたようだった。家に入る時に誰かが着いてきていたことに気付いた弟に対し、箕輪は「りっかくんの友達です」と先手を打ったそうだ。弟は私を探したがまだ帰ってきていない。すると玄関先で話している声につられて家の中から母が出てきた。箕輪は母に「りっかくんが帰ってくるまで中で待たせて下さい」と頼んだ。母は快く了承し、家の中で待たせた。

私は何で勝手に家に入れたんだと怒ったが、何も知らない母にはどうしようもなかったことだろう。貰ったチョコの袋には「貰ってくれてありがとう。好きです。」と書かれた手紙と石のように硬い手作りチョコが入っていた。

 


後で呼び出しを手伝わされた友達に聞いてみると、好きになったきっかけはいじめられているところを助けたことかららしい。確かに体操着袋を汚物扱いされて男子に投げられているのを奪って返したことはあったが、それが箕輪であることは知らなかった。

この2ヶ月前にパパイヤ鈴木からの告白年賀状が届いたばかりであり、これらが相まって、もう誰彼構わず親切平等に接するのは辞めようと誓った。お陰で(?)これ以降知らない人や変な人に告白されることはめっきり無くなった。ちなみに箕輪へのホワイトデーのお返しはきちんとした。

 


次回、スプラトゥーンに出会うまでのゲーム履歴。

半生記Part2

 

 

私は3歳の頃にコナンを見始めた。たまたまつけたテレビでやっていたのがきっかけだ。それ以来コナンに憧れを抱いていた。それはコナンという人格や能力にではなく、アニメの主人公だからという理由の方が正確だと思う。他のアニメをたまたま見ていたらその主人公に憧れを抱いただろう。

コナンのネットで有名な話の中に、モーニングを頼める時間にきた他の客がサンドイッチを頼んで不審に思い尾行するというものがある。当時見ていた話は違うものだが、私はそんな日常でも周囲を常に注意して見ているコナンをかっこいいと思った。以来、コナンの真似事をしていくようになる。

 


アニメのコナンは呆れた心情を表現する際に口を開いたまま視聴者に向かって吐露する。そして何故か周囲の蘭やおっちゃんには聞こえていない。コナンに限らずアニメのキャラクター全般に言えることだが、4歳の頃の私はこれをコナン特有の能力だと思っていた。コナンの発した声は何故か周囲には聞こえていない。私はこの能力を身に付けたいと考え、実験を始めた。

まずそのまま心情を呟いてみる。すると近くの母から返事がくる。つまり失敗だ。

思えばコナンは口を開けたまま腹話術のように動かさずに喋っていた。今度はそのように話してみると、当然だがそもそも喋りづらい。だが一応母に「なんて言ってたか分かる?」と聞くと「分からなかった」と返ってきた。意味が分からなかったという意味だったのか、こちらの意図を汲んで答えてくれたのかは不明だが、それ以来口を開けたまま動かさずに心情を吐露するのがマイブームとなった。しかしどうにも意思が伝わってしまうことが頻発する。この能力は私にはまだ早いと感じ、習得するのは諦めた。程なくしてこれがアニメの世界特有のものだと知る。

 


コナンの世界では盗聴器が日常的に使われている。私は自分の家にも盗聴器が仕掛けてあるのではないかと疑った。

それは5歳のクリスマス。覚えたてのひらがなを使い、母に教わりながらサンタさんへ手紙を書いていた。その後日、去年は空に向かって欲しいものを叫んだのを思い出した。

「なんでサンタさんはあの時ぼくの声が聞こえたんだろう。分かった!盗聴器が仕掛けられているんだ!」

そこから盗聴器の大捜索が行われた。当然見つけることは出来ず、既に回収されている説を母に唱えられ納得したが、実はこの時既に押し入れにサンタさんからのプレゼントが入っていたのだ。高い位置に隠されていた為見つけることはできなかったが、母は内心ヒヤヒヤしたと言う。

その年から私vsサンタさんの戦いが始まった。

サンタさんは白い毛髪なので室内に白髪が落ちていないか探した。当人は冗談のつもりだったのだが、それをこっそり見ていたサンタさんは危機感を覚え、翌年から本格的な証拠工作を始める。

翌年、朝起きるとカーテンは若干開いていた。母は「サンタさんが閉め忘れたんだね」と言っており、私は納得した。

毎年何かしらの「来た証拠」が用意してあった。私自身、元からサンタさんの存在自体は疑ってはいなかったのだが、絶妙に用意されていた証拠のお陰か、その後も存在を疑うことは小学4年生までしなかった。

中でもベランダの植木鉢が変えられていたのは今考えても凄いと思う。

ある年の朝、起きてから母がベランダに出た時、何かに気付いて叫んだ。サンタさんが夜中ベランダから来たのはいいが、ベランダにあった植木鉢を倒してしまったらしいのだ。そのお詫びなのか、植木鉢が立派なものに変わっていた。周りには倒した時にこぼれてしまったと思われる土が若干落ちている。

「お母さんもサンタさんにプレゼント貰っちゃった」と言っており、当時はラッキーだったねくらいにしか思っていなかったが、子供の夢を守る為に必死だった母を思うと頭が上がらない。そんな母は、この話を大人になってから話した時、「二度とこんな面倒な子供育てたくない」と言っていた。ごめんなさい。

 


コナンは疑問に思うことがあると必ず行動に移す。同じことを私はスーパーボールで実行した。小学生の時(年齢は覚えていない)に従兄弟から大中様々な大きさのスーパーボールを貰った。最初はただ弾ませて楽しんでいたが、疑問に直面する。それは「何故落とした高さより高く弾まないのか」だ。理由は当然考えても分からなかったが、逆にどうしたら落とした高さより高く弾むかを考え出した。まず持っている全てのスーパーボールを自由落下させて弾む高さを調べた。私は大きい程弾むと考えていたが、そのようなことはなかった為、大きさは関係ないことを学んだ。次に強く地面に叩きつけると落とした高さより高く弾むことに気付いた。だがそれは最初の1回目のバウンドのみで、2回目目以降はやはり段々と高度が下がってしまう。

落とす場所を変えてみた。普段はフローリングに落としていたが、本の上に落とすと弾まないことは既に知っていた。そこで様々な素材の上に落としてみるが、どれもフローリングより高く弾むことはなかった。

最後にボールにバックスピンをかけて落とすとバウンド時に軌道が自分のいる方向に変わることに気付いた。更に2回目のバウンドでは逆のベクトルに変わり、3回目のバウンドでまた自分のいる方向に変わることを発見した。が、その理由までは分からなかった。

疑問は解決されるどころか逆に増えてしまったが、これらの疑問はその後ずっと頭の中に残り続け、高校で物理を習う中でやっと全ての事象の原理が分かり、スッキリした記憶がある。これは私が物理学の道へ進むきっかけとなった。

 


次にモテ期(恋愛話)について語るが、人格形成に影響する程の話は3つのみなのでその他は割愛することにする。


1つ目の事件は小学4年生の時に起きたのだが、その話をする前に10歳までの私の性格から話す。

私は自分で言うのもあれだがとにかく優しい人間に育った。親の教育の賜物だろう。誰にでも同じように接し、他人の喜びも自分の事のように喜んだ。

小学2年生の頃、クラスに発達障害の女の子がいた。会話もままならず、いつもニヤニヤしてるだけで他の誰もコミュニケーションを取ることはせず避けていた。だが私は毎日話しかけて会話を試みていた。グループを作る授業では彼女は必ず余ってしまうのでいつも率先して同じグループになった。するとある日、とうとう片言だが会話が出来るようになったのだ。会話が出来るようになったのは私の手柄ではないが、それがとても嬉しくて帰ってから真っ先に母に「今日はいい事があった!」と報告したのを覚えている。

私の母は家庭訪問では先生に、保護者会ではその子の母親に息子への感謝を伝えられ鼻が高かったと言う。

 


小学4年生の時に起きた事件について話を戻す。事件は席替えで起きた。当時席替えは所謂お見合い席替えという方式だった。(分からない方は調べて下さい)

当時私は好きな女の子と両想いだった。この方式の席替えは、比較的不人気な前の席であれば好きな者同士が座れるシステムである。当然私達は事前に打ち合わせし、どこに座るかを決めていた。

 


だが、そこには1つだけ落とし穴があった。私は目が悪かったので例外的にお見合い席替えには参加せず、先に前の席を選ぶ権利があったのだ。その時も私は迷わず事前に打ち合わせした席を選んだが、結果から言えばこれが間違いだった。目が悪い人が席を選ぶ時だけは教室に男女揃っている時に行うのだ。つまり女子側は私の席だけは分かる状態でお見合い席替えが始まるので、もし好きな女の子(仮名を細川とする)以外に私の隣に座りたい人がいれば確保出来てしまうのだ。

だがこれは落とし穴ではないと判断していた。何故なら、私の隣を率先して選ぶと、クラス中に噂されてしまうからだ。よって私は誰も選びたくても選べず余り物となると推測していた。そして、事前に打ち合わせした細川には私に「隣に座って欲しいと言われた」という大義名分がある。さっさと堂々と座ればいいだけだ。作戦は完璧だと思っていた。

 


男子が席を決め終え女子の番になったが、何故か異様に時間がかかっている。男子がザワついて来た時、女子が全員廊下に出てきた。決まったのかと思って近くの女子に声をかけると「まだ。これから2回戦が始まる。」と言われた。全く意味が分からなかったが、まだ席は決まっていないそうなので大人しく廊下で待機した。その後、担任の合図で男子も教室に入ると女子が決まった席で待機していた。私も自分の席に向かった。すると隣にいるはずの好きな女の子は別の席に座っていた。代わりに自分の隣の席に座っているのはクラスで1番太った女の子(仮名をデブ山とする)であった。何が起きたのか分からないまま席替えは幕を閉じ、その日の放課後に細川に何があったのか聞いた。

 


細川は油断していた。私が細川に隣になるよう話してるのは割と皆知っていることだった故、私の隣を奪おうものなら他の女子からも顰蹙を買う恐れがあるからだ。

だが、デブ山はいの一番に私の隣の席に座ったのだ。不測の事態に呆然とする細川を心配しつつも、他の女子も席を選んだ。普通なら為す術なく諦めざるを得ない状況だろうが彼女のメンタルもデブ山同様強かった。

「そこ私に座って欲しいってりっかくんに言われていたんですけど」と喧嘩を売ったのだ。しかしそのような言葉で屈するような女ならそもそも座るわけがない。「早い者勝ちのルールだから」とデブ山。

本来の言い分ならルールは破っていないデブ山有利の出来事だが、担任の先生は意外な判断を下した。

「仕切り直しとします。全員もう一度廊下に出て、先生が合図をしたら着席して下さい。」

我々からすれば神対応だが、先生はこの時どんな気持ちだったのかが気になる。

 


そして2回戦、状況が分かっていない廊下の男子を他所に先生は「よーいドン!」と合図をかけた。刹那、細川とデブ山は走った。通常の徒競走なら細川有利だが、これは戦争である。フィジカル(物理)の差で細川を跳ね飛ばし、デブ山が着席した。本当に吹き飛ばされて可哀想だった反面、ちょっと笑いそうになったと後日別の女の子が教えてくれた。

というわけで私の隣の席はデブ山に決まった。唯一の落とし穴はデブ山のメンタルだった。

 


私のクラスはお見合い席替えとくじ引き席替えが交互に行われていた為、次に細川と隣の席になれるのは相当先の話になってしまった。

だが当時の私は最初に述べた通り本当に優しい人間だった。細川と隣の席にはなれなかったがデブ山を恨むことはせず、次の席替えまで楽しくやっていこうと心を切り替えた。実際デブ山と毎日楽しく給食を食べ、互いに忘れ物をした時は助け合った。だが、どうしても受け入れ難いことがあった。それはスキンシップを取られる時だ。私はよくデブ山に冗談を言い笑わせていたが、その際に「ちょっと何言ってんのよ〜」的なノリで叩かれていたのだが、これが無理だった。

まず一撃が重たい。デブで体重がかかっているからなのか、異様に痛いのだ。加えてヌルヌルしている。デブだからなのか、汗っかきなのだ。しかもたまにタッチしている時間が長い。私が初めて人に負の感情を抱いた瞬間だった。それ以来デブ山に限らず、デブに対しては多少距離を置くようになった。

これがデブを毛嫌いするようになったルーツである。蛇足だがこの後告白されてフッている。

 


前回以上に長くなってしまったので今日はここまで。

次回は恋愛エピソードその2とその3etc。

半生記Part1

 

 

 

 


私は自分のことが好きだ。多少の失敗は経験あるものの、ほぼ順風満帆な人生を謳歌しているからだ。半生を書けば自賛しかないだろう。所謂なろう小説が嫌いな人は読まないのが無難であり、それでも読んで途中で不快になったら読むのを中断してほしい。

 

 


私の母は高校卒業と同時に就職し、20歳で私を産む為に退職した。直接言う者はいなかったらしいが、少なからず「子供が子供を産んでどうするんだ」といった内容の批判はあっただろう。だからこそ母は「絶対に立派な子供に育ててみせる」と手塩にかけて育児に励んだと言う。

 

その為、幼少時代から甘やかされた経験はない。幼稚園で出来た友達家族とマックへ行って友達がハッピーセットを頼んでいても、我が家はポケモン以外のハッピーセットは禁止であった。スーパーへ行って友達がお菓子を買って貰っていても我が家は禁止だった。


ゲームも禁止だった。両親が結婚当初ストリートファイターで喧嘩し、争いの元になると判断したからだ。おもちゃも基本的に買ってもらえない為、家にある数少ないおもちゃを遊び尽くした。恐らくこれが私の人間性を決めた最大の要因だと思う。

 


遊び尽くしたおもちゃは3つある。1つ目はプラレールだ。これは父親が電車好きであることから買い与えられた。3歳の頃は父にレールを組んで貰い、1台の電車をぐるぐる走らせることしかしていなかった。5歳になる頃には自動3分岐レールを使い、六畳間の子供部屋いっぱいに環状線を組み、4台くらいの電車をどれだけ長い時間衝突事故を起こさず走らせられるかを研究していた。最高無事故記録を更新すると非常に嬉しく、次の日もその状態で遊びたかったのだが、夜になると布団を敷く為、せっかく作ったレールを片付けるよう言われてしまう。

そこで私はレールの配置を全て暗記した。使っていたレールの数は50近くだったが全て暗記出来た為、次の日布団を閉まってからすぐにレールを組み直し、前日の続きを遊ぶことが出来た。


2つ目は日本地図パズルだ。これは近所の人からのお下がりで、47のピースからなる至って普通のパズルだ。普通は数回パズルで遊んで終わりなのかもしれないが、遊ぶものが少なかった為に私は何回も遊んだ。何回も遊ぶ内にまず47都道府県の名前を全て覚えた。次に47都道府県の形を覚えた。しまいには目隠しをしながらパズルをすることすら容易となっていた。それを知った母は全てのピースに県庁所在地を書いたシールを作って貼ってくれた。そのお陰で目隠ししながら県庁所在地を全て答える遊びに発展した。それ以上はこのパズルで遊ぶことは無くなったが、今思えば次は名産物シールでも作って貼ってくれれば良かったのにと思う。ちなみに当時私は5歳だった。


3つ目はゲームボーイカラーだ。冒頭でゲームは禁止されていたと言ったがゲームボーイカラーだけ例外的に許されていた。懸賞でポケモン金バージョンが当選したからだ。本体はついてなかったものの、せっかく当選したのだからと本体を買ってもらえた。当然ゲームをクリアした後もやり込んだ。小学2年生でポケモン図鑑251匹全て揃えていたのは自分だけだったのではないかと思う。ミュウは当時まだ普及していなかったネットを駆使して裏技を見つけゲットし、セレビィは懸賞に応募して当て、幕張メッセまで取りに行った。ゲームは1日30分までだった為、Lv100の育成は10匹程度しか出来なかったが、それでも小学1年生からプレイし始め、6年生になるまで毎日地道に育て続けた。

 

また、どういう風の吹き回しだったのかは分からないが、2年生の時にコロコロカービィも買ってもらえた。セーブデータを3つ作れた為、当時難易度が高いと言われていたゲームではあったが全てのデータを100%クリアまでやり込んだ。攻略本には載っていなかった1upの裏技も自力で見つけた。ミニゲームもやり込み、高得点ランキングを理論値で埋めた。理論値で埋めてしまうと次回以降理論値を出してもランク外扱いとなってしまい、敗北BGMが流れるのが嫌で遊ぶのを辞めた。同じような声が他ゲームでも多く挙がった為に今のゲームは同スコアを出すと記録更新扱いになるよう改良されたのかなと密かに思っている。

 


これら3つのおもちゃエピソードから分かるように、私が今日1つのことをとことんやり込む性格になったのは幼少期におもちゃをあまり与えられなかったことにあると考えている。それと同時に絶対的に自信のある記憶力も培われたと考えている。ただ、やり込むことに関しては後天的なものだが、記憶力に関しては天性の才能があった。何故かというと、私は産まれる前の記憶があるからだ。

 


私が4歳の頃、部屋を掃除していた母は妊娠発覚後に退団したオーケストラのカセットテープを見つけた。懐かしく思いその場で再生すると、私が「その曲知ってる」と発言したのだ。知っているわけが無いのにと思っている母に対して私は続けた。

「暗くて狭いところでこの曲が鳴り響いて、ぼく怖くて暴れたんだ。」

この言葉を聞いて母は思い出した。妊娠した後、1度そのオーケストラに経過報告をしに行った際、それまで1度も胎内で暴れたことのない私が激しく暴れたのだ。音が怖かったのだと思った母は経過報告も程々に部屋を後にしたという。つまり私は2019年現在26歳だが、最古の記憶は27年前のものと言える。

ちなみに大学生の頃に気になり調べたのだが、胎児時代の記憶を持って産まれる子供の割合は約1%らしい。ただ、その中には「天国で神様に言われたからママのお腹の中に入った」といった定かではない話も含まれているらしく、実際のところはもっと少ないだろう。また、胎児の記憶があると記憶力が良いとされる文献は見当たらない。故に実際のところ私の記憶力が天性の才能と言い切ることは出来ないのだが、胎児の記憶も現在の記憶力も類い稀なるものである為、因果関係があると推測する方が自然であると考える。あとその方がかっこいいからそういうことにする。

 


長くなってしまったので次回へ持ち越し。

次回はコナンとの出会いと憧れについて。

そして第一モテ期と第二モテ期の話。